高島俊男「イチレツランパン破裂して」(文春文庫)

おなじみ「お言葉ですが……」シリーズの6巻目。筆者が東大の教養時代のお話が面白いです。
数学「傾向と対策」丸暗記で、東大に入れたんですね。ホントかなぁ?

お言葉ですが…〈6〉イチレツランパン破裂して (文春文庫)

お言葉ですが…〈6〉イチレツランパン破裂して (文春文庫)

........................P17から引用...................................
数学のできない大学生
 ちかごろの大学新入生は数学ができないという。先生がたが困っていらっしゃるそうだ。まことになげかわしいことである。―という、識者の憂世の言をしばしば目にする。小生これを見るたびに、内心深く恥じ入っております。もしかしたら数学のできない大学生の元祖はこのオレではなかろうかと思うものですからね。
 もうまるっきリダメでした。根本がわからなかった。たとえて言えば、自動車の運転席にすわってキイをまわしてアクセルをふんだら動き出すから乗ってはいるが、こいつがどういうしくみになっていてどういうわけで動くんだかさっぱりわからんというようなものですかね。いやそもそも自動車とは何かということがわからなかったと言ったほうがよいか。
 しかし大学の入学試験に数学が二科目あるから、これをなんとかごまかして通りぬけねばならん。当時旺文社の「傾向と対策」シリーズというのがあった。しょうがない。その森繁雄『解析Iの傾向と対策』『解析?の傾向と対策』二冊を買てそこに出ている問題と答を、わけもわからぬままやみくもに全部おぼえた。いやはや苦痛のきわみでありました おぼえたってその通りの問題が出るわけじゃないから出来はわるかったに相違ないが、ほかでかせいだのかなんだか、どうやら合格して、これでもう数学と縁が切れた、というのが何よりうれしかった。
 ところが入学してみたら、数学が必修だという。これにはほんとうにガッカリした。なんでも学生に幅広い教養を身につけさせるという南原繁前総長の方針で、文科生も理数科が必修になった、とかいうことだった(だから理科生も哲学や社会科学が必修だったんじゃなかろうか)。
 やむなく教室へ出たら、あらわれたのが森繁雄先生だ。やあ、「傾向と対策」の御本尊はこんなところにござったか、奇遇奇遇、と思いました。
 一年間授業に出た 小生にはいたい何の話をしてるんだか徹頭徹尾なんにもわからなかった。火星人が地球におりてきて、火星語で何かしゃべっているみたいであった。しかしなんでも、「傾向と対策」とはよほどちがう方面のことを言っているようでした。先生にてみれば、学生どもはみな、森繁雄と言えば「傾向と対策」と思ってるだろうが見そこなっちゃいけない、ホンモノの数学だってできるんだ、というところを見せたかったのかもしれない。いやなにしろ火星語だから何もわからんのですよ。多分あれがホンモノの数学だったのだろう、と思うだけです。
 一年がたって、いよいよ試験、ということになった。ふだんは大きな教室にパラパラの学生であったのにどこから湧いて出たのかぎしり満員の盛況である。
 問題用紙がくばられた。上のほうに数式らしきものが書いてあるそをうろというのかもとよりわからないが、下がずっと空白になっているからそこへ答をしるせという趣旨であるにはちいない。手のだしようがないからボーゼンとしてただ坐っていた。それからチラチラあたりを見まわしてみると、早速何か書きはじめたのもいるが、所在なげにばんやり窓の外を眺めたりしているのもけこういる。
 しばらくすると森先生がニヤニヤ笑いながら「何も書くことのない人はただ坐っていてもしようがないから裏に何か書きなさい」と言ってくれた。
 小生すぐ裏をかえした。どう考えても表の世界とは縁がないからね。裏街道を行くほかない。
 さあて何を書こうかな。しばらく考えて、まず題目を一行、「小津安二郎の芸術について」と大書した。
 さあこれならいくらでも書くことがある。どんどん書いて行ったら、たちまちいっぱいになった。手をあげて、「先生、もう一枚ください」と申し出たら、森先生にっこり笑って、「はいいくらでもどうぞ」と言ってくれた。問題用紙はまだたくさん教卓の上に積んである。
 一枚とってきて書き、それもいっぱいになったからまたとってきて書きして、B4判くらいの大きな紙にびっしり、五枚か六枚くらい書いた。何をどう書いたか、残念ながらおぼえてない。なにしろ四十五年も前のことだものね、おぼえているのはどっさり書いたということだけだ。 、 、
 いま思うにも、もっぱら裏ばかり書いた学生はほかにもいたろうが、たいがいの人は多少なりとも数学にかかわりのあることを書いたんじゃないかしら。小生のごとくまるっきり方角ちがいのことを書いた者はあまりなかったんじゃないかと思う。
 でも森先生は、六十点くれましたこれが最低合格ライン。無論中身を読みはしなかっただろうが、抜群の分量を買つてくださたのでしょうね。いまでもありがたく思っております。
......................引用終わり..................................

いまでも、大学には森先生のような先生はいらっしゃるのでしょうか? こんな先生、昔は小中高校にもいたような……