水野和夫「国貧論」(太田出版)

日銀の黒田総裁、物価を平均2パーセント上昇させると言い続けてきました。年金生活者の僕は、「そんなに無理してあげなくてもなぁ」と思っております。

「日銀=物価の番人」と社会科で習ったような…… それでも、物価を上げることが日本経済の発展につながるのだ!と言われれば「はい、そうですか」と言わざるを得ないです。

ジャブジャブの金融緩和を何年も続けるだけではどうにもならず、とうとうマイナス金利まで導入したにもかかわらず、目標達成ならず。プロ野球の監督なら、とっくに休養か交代を言い渡されますね。

黒田さんがお持ちの既知の理論はもはや通用しないのでは?と素人のキノシタは思ってしまいます。

いろいろ新書レベルの経済の本を読んできました。どれも一理あります。いちばんしっくり分かるのが水野和夫さん。

その水野和夫さんの新刊「国貧論」(太田出版)が出たのでさっそく購入しました。「近代社会」はもう終わるのだ、という指摘に頷きます。


国貧論(atプラス叢書14)

国貧論(atプラス叢書14)

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既存のシステムが機能不全に陥って新しいシステムがいまだ姿・形をみせないでいる状態はまさにヤーコプ・ブルクハルトのいう「歴史の危機」なのである。近代をどう終わらせるか。近代をどう安息の地に導いていき、死に水を取るか。「中心」にいた15%の先進資本主義・民主主義諸国は、今後、好むと好まざるとにかかわらず「撤退戦」を余儀なくされるだろう。戦いにおいて最も困難を伴う局面は「撤退戦をどう戦うか」にある。単に勝利することよりもはるかに難しい。また後世の評価の鍵にもなるのである。

 私が不安を覚えるのは この撤退戦に最も不向きなタイプの政治家に挙げられる安倍晋三氏が宰相として経政策をミスリードし続けて、あろうことか長期政権になろうとしていることである。狭い視野、浅い思慮、地球儀を俯欧すると言いながら過去の歴史に少しも学ぼうとしない姿勢は、本来なすべき経済施策の真逆を彼に採らせている。なにより、勝つことにしか興味のない硬直した単眼的発想は致命的だ。近代の次に来る時代が、その相貌をゆくりと現してくる数十年後、仮に彼のような政治家が時代の潮流に抵抗するような政策を採った場合、日本は世界の波間に夢く消え去ていくかもしれない。

 話を日本に絞って考えていくことにする。日本に関してはたして「ゼロ成長社会=定常状態」というものは、具体的にどう構想できるのか? あるいは積極的に構想できるものなのか? だがいま、世界中のどんな民主主義国家であれ、政治家が「これから済成長ゼロでいきます」と旗印に掲げて選挙を戦うことは不可能だろう。ここには同情すべき事情もある。だが「近代の秋」を迎えているいま、政治家に求められる要諦は言葉で現実を説明する能力、自らの未来の構想を語る教養なのである。

 アメリカの社会学者で 『徳川時代の宗教』(岩波文庫)という名著もあるロバート・ニーソー・ベラーは、「日本は経済成長をしないと言って嘆いているし、高齢化や人口減少についても悩んでいる。だが、よく考えてみれば、これから世界はどうせ経済成長がほとんどできない社会になる。高齢化率も高くなるに決まっているし、人口だってやがて減る方向に向かっていく。日本は、世界が近未来に突入する状態を先取りしてるだけなのだ」と語ったことがある。

 そのとおりである。人口は20世紀になって爆発したのだし、数億年かけて堆積した化石燃料は、わずか数百年で消費し尽くされようとしている。イギリス人歴史学者のエリック・ホブズボームは、30世紀になれば20世紀は「極端な時代」と位置づけられ、そう呼ばれるだろうと書いている。すべてが「過剰」に生産され、「極端」に消費された時代それが近代とも言いえるのだ。

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アダム・スミスは「国富論」、水野和夫は「国貧論」。その間およそ250年。これからどんな社会になるのでしょう。