里中哲彦「まともな男になりたい」(ちくま新書)

60代も後半にさしかかっているのに、いまさら「まともな男になりたい」と思い立ってもすでに手遅れですね(トホホ)。 でも、少しは軌道修正できるかもしれません。

著者の里中哲彦さんは中公新書「英語の質問箱」「英文法の楽園」などを書いている河合塾の英語講師です。いっぽう「鬼平犯科帳の人生論」などの著書もある方で、キノシタより10歳ほど年下です。読んでいて、身につまされることがいっぱいです。

たとえば「教養」について

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生意気な口ぶりがづついて自分でもハラハラするが、要は文学や芸術にたなしみがあり人名や文字章句を数多く知っているという「装飾としての雑学」が「教養」なのではなく、己れの能力や才能を見いだして、それを社会の一端とつなてゆく、そういった「自己を習い知るための力」を「教養」と呼びたいのである。

*教養の力
では「教養」はいかなるときに獲得できるのか。まさにその瞬間を平易な言葉のうちに書き記した文章がある。読んでいただこう。

 あれは、私が小学校二年生のときだった。先生から渡された全甲の通信簿をしっかり抱えて家へとんで帰った。いまのオール5。私は得意だった。台所で煮ものをしていた母に、「あのね、今日先生にはほめられたのよ、私は特別よくできるって……ホラ、見て」
 そう言ったのに
「へエ、そうかい」
と言っただけで振り向いてもくれない。つい、「できない子だって大ぜいいるのよ、ホラ、左官屋さんちの初ちゃんなんか、この間も算術ができなくて、先生にうんと叱られて……」
 とたんに振り向いた母は
「つまらないこと、お言いでない。人間、学校の勉強さえできれば、それでいいってわけじゃないだろ。初ちゃんは算術は下手かも知れないけれど、小さい弟たちの面倒をよくみるし、ご飯の仕度だってお前よりずっと上手だよ。人それぞれ、みんな、どこかいいところがあるんだからね。先生にちょっとほめられたくらいで特別だなんて、いい気になるんじゃないよ、みっともない」
 母は本気で怒っているようにみえた−叱られることは、めったになかったのに……。

(母さんの言うとおりかも知れない。初ちゃんは優しくて親切で、私も大好きなのに悪いこと言っちゃって……)
 急に恥ずかしくなった私は、にぎりしめていた通信簿をそっと背中にかくした。

       (沢村貞子『老いの楽しみ』岩波現代文庫)
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いま、沢村貞子さんのお母さんのような人がどのくらいいるでしょう? キノシタはこんなふうに生徒に言えるかな?


さらに、著者の里中哲彦さんは田辺聖子さんのこんな言葉を引用し、教養の意味を考えます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 引用 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 思いやりや人を喜ばせてやろうという気持 それが、人間の教養あるしるしではないかと思った。
 夫は一流の学校を出て知識人と思われ、いい会社に勤め、とりあえず人に出世したと思われて、人生は成功したようにみえるかもしれないが、かんじんの、いちばん身近にいる妻をさえ、心楽しませることをしないのだ。
 そんな男が、なんのインテリ、なんの教養人であろう。
 人生でいちばん大切にしないといけない人間に、どう思われているかということさえ分らないとは、何というぼんくらであろう
          (田辺聖子『不倫は家庭の常備薬』講談社文庫)


ここでいう「教養」とは良好な人間関係の築き方がわかるということ、すなわち人の心に明かりを灯せるような性格に自分を仕上げるという努力なのだ。

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 人の心に明かりを灯せるような性格に自分を仕上げるという努力をしているか? ぼんくらになっていないか? そう思うと、はなはだ心もとないキノシタです。