芦屋川と夙川を挟んでの文化の違い

精道中学校の後輩で映画監督の大森一樹くんが亡くなったことは、このブログでも書きました。

eisuukinoshita.hatenablog.com

彼が、同じく精道中学校出身の村上春樹さんの小説『風の歌を聴け』を映画化したことがあるので、村上さんが追悼文のようなものを掲載しないのだろうか、とちょっと期待していたところ、うれしいことに、読売新聞に『大森一樹くんのこと……同じ空気の中で過ごした十代と「駆け出し」だった頃の記憶』と題した寄稿が、載りました。

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大森一樹くんのこと、

 同じ空気の中で過ごした十代と「駆け出し」だった頃の記憶 僕は小学校までは兵庫県西宮市の夙川(しゅくがわ)というところに住んでいて、中学校に入ったときに隣の芦屋市に引っ越した。川(夙川)をひとつ渡るだけの引っ越しで、新旧の住居は距離的にもほんの数キロしか離れていなかったのだが、実際にそこで生活し、地元の学校に通ってみると、「川をひとつ越えただけで、こんなにも生活感が違うのか」と驚かないわけにはいかなかった。言葉も、考え方も、いろんな日常的習慣もちょっとずつ(でも疑いの余地なく)違っているのだ。阪神間というのはかなり不思議なところだなと、子供心にも感心してしまった。山と海に前後を挟み込まれた細長い土地だけに、横にぶつ切りにするとそれぞれに個性、特徴が出やすいのかもしれない。

 大森一樹くん(あえてくんづけで呼ばせてもらうけれど)は芦屋市立精道中学校の三年後輩にあたる。三年違いなので、担任の先生もたまたま同じで、初めて会ったときその話になった。彼の話によると彼は入学してすぐに僕の話を聞かされたということだった。「ハルキさんは伝説的な有名人だったんですよ。ものすごくたくさん本を読んで、すごい文章を書くってことで」と彼は言った。僕はそれを聞いてすっかり驚いてしまった。僕は確かに中学生の頃からたくさん本を読んでいたし、文章を書いて褒められたことはあったけど、いくらなんでも「伝説的な有名人」はないだろうと。でもとにかく大森くんの話ではそうなっていた。

 最初に会ったときから話は合った。なにしろ「横にぶつ切りされた」小さな街で、同じ空気を吸って十代を過ごしてきたのだから。そしてまた二人とも映画が好きで、神戸の映画館のことならば隅々まで知っていた。とくに場末の映画館が我々の好みだった。安い料金で二本立てか三本立ての見られるところ。芦屋会館というおそろしくうらぶれた映画館(街の雰囲気にはそぐわなかった。今はもちろんない)で『007危機一発(「ロシアより愛をこめて」の当時のタイトル)』を見たという経験も共通していた。

 彼は小説『風の歌を聴け』を映画化したいということで、僕に会いにきたのだが、当時の我々はどちらもまだ「駆け出し」の時期だった。彼は『オレンジロード急行』『ヒポクラテスたち』で本格的映画監督デビューを果たしたばかり、僕は処女作『風の歌を聴け』を出版したばかり、立場もだいたい似たようなものだった。僕は『ヒポクラテスたち』を見て、その感性の新鮮さにすっかり感心してしまった。彼もまた僕の本のことを気に入ってくれていて、「この世界はきっと僕にしか描けません」みたいな話になった。同じ空気を吸って育ったものとして、ということだ。

 映画『風の歌を聴け』で大森くんはいろいろと実験的な試みをおこなった。『ヒポクラテスたち』とはぜんぜん違う世界を描こうとした、ということなのだろう。フランスのヌーベルバーグの手法を積極的に取り入れたり、とにかく斬新な感覚を駆使して僕の小説世界を映画に移し替えようとした。それが意図通り面白い効果を上げている箇所もあったし、今ひとつうまくかみ合っていないと感じられる箇所もあった。この作品の世間的な評価がどうだったのか、商業的な成績がどうだったのか、そういうことについて僕はほとんど何も知らない。ただ評価が賛否両論であっただろうということはおおよそ想像がつく。

 僕がこの映画で個人的に評価するのは、大森くんが「後先考えず」にとでも言えばいいのか、とにかくやりたいことを若々しく、自由にやってくれたこと、そして真行寺君枝小林薫巻上公一という個性的な三人の若い俳優を起用し、生き生きと上手に動かしてくれたこと、その二点だ。僕がこの映画に関して言いたいことは、そこにつきると思う。

 その後、大森くんは東宝ゴジラ・シリーズなど、数多くのメジャー映画を手がけ、ヴェテラン監督として活躍したようだが、僕はしばらく日本を離れて生活していたこともあり、その作品をほとんど見ていない。だから彼の映画監督としての業績をまとめて俯瞰(ふかん)するというようなことはとてもできそうにない。僕がありありと記憶しているのは、彼と最初に会ったときのことで、そのとき僕はたしか31歳、彼は28歳だった。二人とも(おそらく)怖いもの知らずで、自分が吸い込む空気の確かさを信じていた。そのことを懐かしく思う。そして少しばかり切なくなる。

 映画監督といえば僕が学生時代、水道橋のジャズ喫茶で一緒に働いていた小林政広くん(『春との旅』)も今年の八月に亡くなってしまった。当時の彼はまだ高校生だった。僕より年下の才能ある人々が、こうして先に世を去っていくのを見るのは惜しく、そして悲しい。

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才能豊かな2人の出会いの追想が、うまく伝わってきますね。

さて、ここで村上さんは、
<中学校に入ったときに隣の芦屋市に引っ越した。川(夙川)をひとつ渡るだけの引っ越しで、新旧の住居は距離的にもほんの数キロしか離れていなかったのだが、実際にそこで生活し、地元の学校に通ってみると、「川をひとつ越えただけで、こんなにも生活感が違うのか」と驚かないわけにはいかなかった。言葉も、考え方も、いろんな日常的習慣もちょっとずつ(でも疑いの余地なく)違っているのだ。阪神間というのはかなり不思議なところだなと、子供心にも感心してしまった。山と海に前後を挟み込まれた細長い土地だけに、横にぶつ切りにするとそれぞれに個性、特徴が出やすいのかもしれない。>
と語っています。

はて? これと同じようなことを誰かが言っていたぞ、とあれこれ思い巡らすと、文藝別冊「中井久夫」(河出書房新社)の対談記事(2013年5月3日、神戸での中井久夫さんと原武史さんの3時間に及ぶ対談)にあることを思い出しました。

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原武史:話は変わりますが、阪神間を走る阪急神戸線の文化が、駅によってこんなにも細かくきれいに分かれるということを知らなかったので、初めて中井さんの書かれた「阪神間の文化と須賀敦子」を読んだときには驚きました。
 関東でこういうことが言えるんだろうか、と考えると改めて違いに気づくんです。たとえば東急東横線で言っても、自由が丘はこうだけど田園調布はこうだとか、そういうことが言えるわけがない。その違いの理由のひとつは、やっぱり地形ですよね。地形がたしかにくるくると変わる。それは阪急神戸線に乗っているとわかる。関東の場合はしょせん関東平野ですから、多少アップダウンはあるけれど、基本はそんなに変わらない。あきらかに西官北口と夙川と芦屋川では景色が違うんですよ。一駅行くだけで言葉まで違うんだと、本当に驚きましたね。村上春樹もたしか夙川ですね。ちょっと独特な文化があるのかな。
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私の体験で言うと、夙川と芦屋川の間にもう一本、宮川という小さい川があります。
その宮川の西側(精道小学校地区)と東側(宮川小学校地区)ではなんとなく違うなぁ、と両小学校が混合する精道中学校で感じたのを思い出します。ほんの小さな川を挟むだけで、微妙な違いが生まれるなんてふしぎです。