山田雅彦「授業成立の基礎技術」(東京学芸大学出版会)

いい授業をすることはなかなか難しいです。いつも生徒たちが熱心に授業に参加するとは限りません。教師の話を聞いているふりをしつつまったく別のことに思いを巡らしている生徒もいれば、眠りそうな子もいます(^^;) 授業と関係ない話をしはじめる場合も生じます。

こんなとき、叱りつける、説教をする、のが通常です。しかし、これらの対応はあんまりよろしくないです。生徒の私語同様、場の雰囲気が壊れてしまいます。下手をすると、その教師への反感反発が膨らみ、後々やりにくさが一層増すかもしれません。

いい受業って何だろう?教壇生活を終えたあとも考えることがあります。この本を読んでみて、公立高校の教諭時代、勉強が苦手な生徒が多い学校(世間で言う底辺校)での勤務で自然と編み出した手法が、<一度手放してフォーカスをとる>だったんだと分かりました。

授業成立の基礎技術―「教壇芸人」への道

授業成立の基礎技術―「教壇芸人」への道

..............................P89から引用.....................................
第5節 一度手放してフオーカスをとる
 教師は時として、児童・生徒の課題非従事行動に対して、それを一時許容したり、時には課題非従事行動を助長するような行動をとったりすることがある。これらは、即興劇においてそれぞれ「フオーカスを共有する」「フォーヵスに入る」と呼ばれる行動にあたる。
 教師が児童・生徒の「フォーヵスを共有する」とは、児童・生徒が注目している事物に、たとえそれが教師の期待 (授業の流れ)からそれたものであっても、教師自身も注目することである。雷や雪、校庭に入り込んだ犬、床に落ちている虫の死体やこぼれている液体など、児童・生徒が強い関心を示すものは数多いが、多くの児童・生徒がこれらに気づいて騒然としたとき、教師はしばしば彼らとともにその事物にしばし注目する。
 虫や液体であれば、児童・ 生徒に危害が及ぶ恐れがないか、教師が排除する必要があるかどうか、を確認する実用的な意味もあるが、雷や雪への注目を教師が共有するのは、 「今は教師が何を言つても聞かないから」である。いずれにしても、教師はみずからのフォーヵスを一度放棄して、児童・生徒とともに野次馬として彼らのフォーヵスを共有するのである。
 これにより、教師と児童・生徒の距離感が縮まることに注意したい。見ず知らずの野次馬どうしの間でも、両者が注目している出来事に関してはその場限りの会話が成り立つように、関心事を共有している人どうしの間ではそうでない関係に比べて会話の成立が容易である。教師は児童・生徒とフォーカスを共有することによって、「毅然として」教師・教材への注目を求めるよりも容易に児童・生徒の注目を教師自身にも集めることができるのである。
 その上で、教師はより積極的に児童・生徒に関わってゆく(児童・生徒のフォーカスに入る)ことも可能である。雷が鳴っていたら「雨、降るのかなあ」、雪が降り出したのであれば「今年最初の雪だね。このへんでは○○って呼んでいるけど、正式には風花っていうんだよ」などというように。
 この種の対応の典型例が、児童間の雑談に、教師がまるで児童の一人であるかのような内容の発話で参加してゆくことである。「昨夜、○○(テレビ番組)見た?」と遠くの同級生に声高に話しかけている児童がいたとき、 教師みずからが 「見た。〜だったよね」 と応じることで介入するような対応がこれに相当する。このような対応の際、発話者である児童はしばしば、次に同級生ではなく教師に向かって話しかけてしまう。 教師は児童間の私語を分断することができ、私語の収東に一歩近づくのである。このような「フォーカスに入る」ことによる私語の収束の例を以下に示す。
..........................引用終わり........................................

P94からの落語家の林家三平(故人)の話が、なかなか示唆に富んでいます。感じの良い授業をする教師って、どこかうまい芸人に通ずるような気がしますね。そういえば、この本のサブタイトルは<「教壇芸人」への道>です。
 「数学はそんなに好きじゃないけど、キノシタの授業はなんか好き〜」、と言ってもらえたのはうれしい思い出です。