文系と理系の対立を越えて

斎藤孝さんの「できる人はどこがちがうのか」(ちくま新書)に、こんなことが書かれています。「理系」と「文系」と二分されることが多いが、果たしてそれがいいことなのかと。

「できる人」はどこがちがうのか (ちくま新書)

「できる人」はどこがちがうのか (ちくま新書)

小生の高校時代(およそ50年前(^^;) 文系と理系にコースが分かれるのは、高校3年生のときでした。多くの高校でもそうでした。文系理系の選択も、大学入試科目ではなく本人の好みによるもので、法学部志望者でも私たちの理系クラスに在籍、物理や数学IIIを学んでいる友人もいました。

現在、2年生から文系理系に分かれている高校が少なくありません。大学入試に効率的だからでしょう。しかし、ちょっとそれではさびしい人生選択ではないでしょうか。できることなら、文系であれ理系であれさまざまなことに関心や興味がもてる、そして、将来にわたっていつまでも知的好奇心を失わないことが、豊かな人生につながると思います。

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文系と理系の対立を越えて

二項対立をつくって世界を二分して理解する仕方は、便利なものだ。創世神話の多くは
天と地が分かれるところから始まり、カオスから秩序への移行が、まず語られる。善と悪を分けて世界を理解しようとするのも、メジーな二分法だ。こうした二項対立はいくつかをうまく組み合わせれば、リアリティを捉えやすくしてくれる。
しかし、あまりにも単純に二項対立によって二分したままで思考をストップさせてしまうと、リアリティとずれたところで、単純に物事を整理しすぎる危険性がある。しばしば言われる文系/理系という二分法は、その最たるものではないだろうか。
 文系人間と理系人間の二種類に人間を分ける考え方は、合理的な役割分担を目指しているかのようでいて、実は上達への意欲を阻害する要因になっていることが多い。文系は、積極的に自分を文系だと規定する以前に、理数系の成績が悪いことから消極的に決まっていくケースが多い。とりわけ、自分の数学の成績に対して、どこかあきらめの気ちを抱いていたときに、その人は文系となることが多い。
 そして自らを一度文系と規定してしまうと、理数系の科目の上達には一切関心がなくなる傾向がある。つまり、切り捨ててしまうのである。切り捨てられるのは理数系の科目に限定されたことではなく、学校のカリキュラムよりずっと幅の広い科学的知識全般に対して関心を失うことにもつながてしまう。  一方で、自らを理系と規定した場合には、哲学・思想や文学など、いわゆる文系的だと思われている知識に対して、そのような知識に関心なくてもまったく構わないのだという安心感を持ちがちである。欧米では、物理学や数学といた理系的な分の学位と哲学や文学などの文系的な学位とを、両方にまたがって複数持っているケースが少なくない。アジアを含め諸外国の大学生と比べて、日本の大学生においては、文系/理系という二項対立が大きな枠として覆い被さっているように思われる。
 しかし実際に即して考えてみれば、この二項対立はさして説得力がない。文系学部だとされている経済学部では数学必要とされる。理系科目とさる生物学は、受験でいえば暗記科日であり、とりたてて数学的な能力を要求されない。国語や社会にも論理力は必要であり、論理的思考を区別の基準とすることも、説得力に欠ける。
 数式を用いるかどうかはともかくとして、論理的思考を尊重ない態度は、文系の学問でも認められない。小説家や芸術家のような特殊な創造的作業においては、いわゆる論理を超えた直感力を求められるだろう。しかし、直感力は理数系の研究における発見にも求められるものである。また、経営など実社会における思考にも、論理と直感の双方が求められる。

   (中略)

文系の特質は言ってみれば、自然言語には強いことである。日本語の文章理解力が優れているとすれば、日本語で書かれた科学の啓蒙書を読む技術においては、文系の人間の方が優っていると言えるのではないだろうか。つまり、本を多量に読む技術が備わっていれば、科学的知識の多くを収することができるはずであるのに、自ら門を閉してしまっていること問題なのである。大学において、文系の学生に理系の科目を教えている先生たちによれば、自分たちを文系と規定していることによって、知的好奇心が大きく限定され向学心が妨られているということである。文系/理系という二項対立は、知的好奇心や向上心を持たなくてよい言い訳の道具になってしまっている。

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「とりわけ、自分の数学の成績に対して、どこかあきらめの気ちを抱いていたときに、その人は文系となることが多い」とは、数学を教える者の一人として耳の痛い話です。

チマチマと問題を解けるようにするだけでなく、「数学ってよくできてるなぁ!」「とてもシンプルな事柄から、こんな美しいことが導き出せるとは!」、と生徒を感動させる授業が求められています。